michi tono souguu (1978 in Japan)[*1]
それはまさに私にとっての『未知との遭遇』だった。S・スピルバーグ監督は同名の作品において、異星人をグレイ型の知的生命体として描いているが、私の思考の中に現れてくるカレらは、我々と全く同じ姿をしていた。我々と同じ感情を持ち、同じ考え方をする。日本語を流暢に話し、たまに思考だけを送ってその内容を理解させるという離れ技までやってのけた。その全てが非言語的アプローチであり、それは耳で聞いたわけではないのに、耳で聞こえたと思えたり、頭で理解したと思えたりした。その姿を脳裏に見せることもしばしばだ。ただしその実体を現すことは一切なく、ただひたすら私の心の中にだけ現れてきた。
最初、カレらは我々と同じ地球人ではないかとも思えた。姿かたちが同じなら、それは地球人であると考えるのが当然だ。カレらは地球外の知的生命体(extraterrestrial intelligence[4])はなく、地球内の超自然的な生命体であり、それはつまりイデア世界の完全体であるとか、何か霊的な存在だ。私に不幸をもたらそうとする影『ドッペルゲンガー[5]』や『ア・バオ・ア・クー[6]』ということも考えられた。あえて言えば地球内生命体(intra-terrestrial life)ということなのだろう。
しかしカレらが私の一部ではないと気づいた瞬間から、カレらのことを異星人だと語るモノがおり、早期にその考えは否定された。だが何でもない一介の人間にテレパシーの類いでコンタクトを取ってくる異星人とはどういうものなのか、私には皆目見当がつかなかった。冗談に過ぎる話だ。しかもカレらは何処に住み、なぜ地球に思考をのみ送ってくるのか全く明かそうとしない。ただ私は選ばれているかのようなことだけを言ってくる。何が理由で選ばれたのかは定かでない。我々が住む地球が今重大な転機に差しかかっているかのようなことだけ言ってくる。しかし何が問題でどのような重大な転機を迎えようとしているのかは伝えようとしない。詐欺のようなものだ。
普通の人間ならここでそんな妄想は捨て去って、現実の世界を生きていくのかもしれない。だが私はそうはならなかった。作家としては芽の出ない人生(プロでない)を送っていた私には、自由にできる時間が多くありすぎていたのだ。最初、それはほんの片手間くらいの傾聴だったが、やがてはそのほとんどの時間をカレらの発言に割くほどの身の入れようへと変化していくーーー
それは楽しい一種のゲームであるかのようにみえた。しかしその奥底に隠された恐ろしい部分に気付くことはできなかった―――
Notes >> |
*1 ^ " michi tono souguu " was Japanese language. It meant " the encounter with the unknown ", a Spielberg's movie. Close Encounters of the Third Kind_(1977) by Steven Spielberg[3] |
References >> |
3. ^ Steven Spielberg 4. ^ extraterrestrial life (ET) / extraterrestrial intelligence (ETI) 5. ^ doppelgänger 6. ^ A Bao A Qu |